JUMEAUX OBSCENES Respect a SPANK HAPPY


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坂本ナポリ
 SPANK HAPPYのマネージャー。前SPANK HAPPYのアルバム『FREAK SMILE』の「80年代」と言う曲では、声の参加もしている。ちなみに、漫画家の西原理恵子さんと同級生らしく、過去の作品に登場したこともあるらしい(未確認)。
ジェーン・マンスフィールド
 ジェーン・マンスフィールド(Jayne MANSFIELD)。33年、アメリカペンシルバニア州生まれ。女優。テキサス大学の演劇科在籍中の50年にポール・マンスフィールドと学生結婚。2年後に軍人となった夫の駐屯先でアマチュア劇団に参加。その後サザン・メドディスト大学で演劇と心理学を学ぶ。やがて沢山の美人コンテストに優勝するようになり、モデルを経てTVやブロードウェイの舞台に出演。54年にワーナーと契約して映画デビュー。56年に離婚してFOXと契約。58年にはミスター・ユニヴァースのミッキー・ハーギティと結婚。その後マット・シンバーと再婚するが66年に離婚。その翌年の6月に自身のソックリさん大会へ向かう途中、ニューオリンズ郊外で自動車事故を起こして急死した。プラチナブロンドに、分厚い唇、誇張しすぎとも言えるセクシャリティと、自己パロディに近いパフォーマンスが特徴だった、50年代を代表するセクシー女優。代表出演作品。「皆殺しのトランペット」「女はそれを我慢できない」「よろめき休暇」「気まぐれバス」「野郎ども地獄へ行け」「プレイラブ48章」。公式サイト
 瞳ちゃんは、ジェーン・マンスフィールド症候群らしい。
資本主義ハウス
 出来うる限りの資金をつぎ込んで、微に入り細に入り考えられた、根底にショービズ意識のある、ハリウッド思想で出来ているハウスミュージックのこと(ハリウッドを憎むゴダールが、大好きな人がハリウッド式も積極的に取り入れるというやりかた、勿論、逆の言い方もできるが、それが菊地さんの面白いところだ)。指示する人と、指示される人が、一見平等に見えるようであることも重要である。
主幹シャツ
 誰が言い出したのか、ライヴでよく着ている赤い(カーマイン)シャツのことを指す。同じのを5枚持っているらしい。「哭きの竜」のコスプレを意識してるとかいないとか。
ジョルジオ・モロダー
 ジョルジオ・モロダー(Giorgio MORODER)。40年、イタリア・ドロマイト出身。作曲家、プロデューサー。学生時代から作曲活動を始める。ドイツにスタジオを構え、68年、「Mah Na Mah Na」でデビュー。ピート・ベロッテと組み、プロデュースしたドナ・サマーのアルバムでは、タンス型のMOOGシンセを駆使して生み出された"ミュンヘン・ディスコ・サウンド"と呼ばれる16分のシーケンス・ベース・ラインを披露。全世界で大ヒット。電子音楽界、そしてディスコミュージックの偉大なるコンポーザーと呼ばれる。彼の70年代の作品は、当時としても素晴らしく、現在のクラブ・チューンにも通じる、元祖エレクトロ・ダンス・ミュージックと言える。80年代以降の作品は商業根性が高くなり、パワーダウンしていった感があるが、90年代に入るとハウスやテクノのアーティストたちにも素材のひとつとして注目され、カヴァーヴァージョンも続々登場するなど、その魅力に再び注目が集まっている。無断盗用は日常茶飯事。訴え出したら一生裁判所通いだと、数々の受賞トロフィを前に笑顔で嘆いている。代表作品。「Love To Love Your Baby」「I Feel Love」「メトロポリス」「フラッシュダンス」「トップガン」など。
ジンジャーエール
 瞳ちゃんが、中毒的に愛している飲み物。氷は入れない。
スパンク・ハッピー
 スパンク・ハッピー(SPAMK HAPPY)。略称スパンクス。菊地成孔さんと岩澤瞳さんの二人組のこと。99年、結成。
スペインの宇宙食 NEW
 サブタイトル、"Cuisine cosmique espagnole -Vie d'amour d'un musicien qui est un névrosé de restaurant"。菊地成孔氏の初エッセイ集(小学館 2003年9月22日発売 )。内容は、1998年〜2002年辺り(神経症発症前後)まで、ネットや雑誌に書いた膨大なエッセイから傑作を厳選したもの。音楽、料理、映画、文学、セックス、精神分析などについて。本当と嘘が、絶妙に混じり合っている。その混ざり具合が、正に彼の世界そのものなのだ。
ソシュール
 フェルディナン・ド・ソシュール(Ferdinand de SAUSSURE)。1857年 スイス・ジュネーヴ生まれ。言語学者、哲学者。14歳にして、「ギリシア語、ラテン語、ドイツ語の単語を少数の語幹に還元するための試論」をあらわす。78年、「印欧諸語の母音の原書体型に関する覚書」刊行。80年、学位論文「サンスクリット語の絶対屬格の用法について」提出。80年秋〜91年秋、パリに移転。高等研究員講師、パリ言語学会幹事を歴任。91年秋、ジュネーヴに戻り、ジュネーヴ大学にて、サンスクリット語・印欧諸語の比較文法、言語地理を教授。しかし、93年頃から、論文の発表が途絶え、94年のホイットニー(言語学の先駆者)の死去後、完全に“沈黙期”を迎える。この時期、霊媒エレーヌ・スミスが語る古代インド女王の言葉や火星語の研究をし、またギリシア・ラテン語詩に潜むアナグラムの法則を研究していたと言われている。1913年、死去するが、1907〜11年に行った、3回の「一般言語学講義」の記録を元にして、16年、彼の弟子たちの手により、言語学の礎となり、構造主義の始まりとして思想界に大きな影響を与えた『一般言語学講義』を編纂する。