JUMEAUX OBSCENES Respect a SPANK HAPPY


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パードン木村
 クルマとサーフィンとバイクと犬をこよなく愛し、長髪で長身の不良中年シンガー・ソングライター&アレンジャー。99年、ヤン冨田とのコラボレーションによって生まれた1stアルバム『ローカルズ』をリリース。エレクトロニカからアメリカン・ロック、ジャジーからアーシーまで、気の趣くまま、ボーダーレス・サウンドを展開している。別名「癒しの館」と呼ばれる一軒家に、レトリバーのスーちゃんと暮らしている。
ハウス・ミュージック
 ハウス・ミュージックは、70年代末期にシカゴのゲイ・クラブ「ウェア・ハウス」を中心に生まれたダンス・ミュージック。以降、ニューヨークやロンドンにも飛び火し、続々とサブジャンル(アシッド・ハウス、ディープ・ハウス、ガラージ、プログレッシヴ・ハウス、トライバル・ハウス)を派生していった。このジャンルの創始者とは、フランキー・ナックルズや、ファーリー・ジャックマスター・ファンク、スティーヴ・“シルク”・ハーレー、ロン・ハーディーといったDJたちである。彼らの興した初期のシカゴ・ハウスは、リズムマシンによる4つ打ちのビートを中心にしたリズムとハンドクラップ、古いファンクなどのサンプリングによる声の繰り返しが何分間にも及ぶドラッギーなものだったが、同時にソウル-ディスコのもつファンキーな面も併せもっていたのが特徴。ハウスはジャズ-ラップ-ソウル-リズム&ブルース-シンセ・ポップ-ダブ-レゲエ……、といった様々な音楽要素からインスパイアされながら誕生し、その瞬間から世界中を席巻。完全に音楽ジャンルとして確立されている。さらにアンビエントやトライバル、エスニックといったその他の音楽ムーヴメントと合体しながら、ゲイ・カルチャーと共に日々進化(=深化)している。
ハラミドリ
 初期SPANK HAPPYのメンバー(原ミドリだったり、原緑だったり、色々な表記がある)。ヴォーカリスト、作詞、作曲、アレンジ、色々。89年、財津和夫氏とのデュエット曲でデビュー。87年、「MiDo」。88年、「KO KO RO NOTE」。89年、SPANK HAPPY結成。96年、「worst 12 in heaven」。98年、2000年、原緑/*come(ハラミドリスラッシュカムカム)で「ブルーズ彗星」発表。03年、原みどり&チャンチキズ結成。原緑/*comeをDigital LOVE tabla(デジタルラブタブラ)と改名。公式サイト
美容整形
 瞳ちゃんは、猛烈に美容整形に憧れているらしい。しかし、目的は伴わない。ただやみくもに憧れて、情報収集をしているようだ。
フェティシズム
 呪物崇拝、物神崇拝、節片淫乱症と訳される。フェチと略されることが多い。物に対する欲望で、例えば(女性が身につけていた)下着や靴等に対して性欲を感じるという物である。語源は、ラテン語→ポルトガル語→フランス語のようである。フランスで初めてフェティッシュと言う言葉が使われたのは1669年。そして、フェティシズムという言葉が生まれたのは、1760年、フランスの啓蒙思想家シャルル・ドゥ・ブロスの著書、『物神(フェティッシュ諸神)崇拝、あるいはエジプトの古代宗教とニグリシアの現宗教の比較論』においてである。アフリカの黒人達の間で古くから行われている熱狂的な「フェティソ(護符)」崇拝行為を見て、「あるものが、人(信徒)によって地位を与えられ、フェティシュ(神)の位置にのぼったもの」と定義した。この言葉を、心理学の分野に最初に持ち込んだのはビネの18870年の論文、『愛におけるフェティシズムについて』であるが、後にフロイトにより、この領域は熱心に分析解明され、広まってゆく。しかし、実際にこの専門用語が、広くの一般の人に知られるきっかけになったのは、当時最先端の女性誌「ヴォーグ」や「エル」の写真家ヘルムト・ニュートンの出した写真集、「ホワイト・ウィメン(1976年)」「スリープレス・ナイト(78年)」の、爆発的な流通によるものである。フェティシズムのジャンルには、脚フェチ、尻フェチ、乳房フェチ、靴フェチ、髪フェチ、獣皮フェチ、ボンデージ、ラバー、レザー、ロリータ、タトゥー、SM、オゾラグニア(嗅覚淫乱症)、アルゴラグニー(苦痛淫乱症)、カニバリズム(食人)、ネクロフィリア(屍体愛好)、ピグマリオン(人形嗜好症)などなど、人間の欲望の多様化と複雑化が進んだ分だけ存在する。その対象物は、性的満足を与えてくれ、表現したいという気持ちを奮起させるという物でもあるが、単に欲しいと思うものとして捕らえられ、最近は「フェチ=好き」という感覚で、この言葉を使っている人も多いようだ。
フェラン・アドリア NEW
 フェラン・アドリア・アコスタ( Ferran Adrià Acosta)。1962年5月14日、バルセロナに生まれる。80年、特にこれといった理由もなく学校をやめたあと、イビサで休暇を取りたいが為に、カステルデフェルスにある「プラヤフェルス」という小さなホテルで、皿洗いの仕事する。そのホテルレストランのシェフが、“スペインのエスコフィエ本”といわれる料理書「エル・プラクティコ」を教科書に、彼に伝統料理を教える。1981〜1982年、イビサのクラブ、「カラ・レーニャ」で、4ヶ月働いた他、レストランの仕事を転々とする。兵役まで、一流レストラン、「フィニステレ」に勤める。1982〜1983年、カルファヘナでの海軍にて、総司令官の料理担当スタッフになる。キッチンの責任者を任せられるまでに。1983年、「エル・ブジ(el Bulli)」に勤める。後のダイニング・マネージャー、ジュリ・ソレルと出会い、チャンスを手に入れる。すぐにシェフ・デ・パルティエの地位を得る。彼の腕によってエル・ブジは、世界中の料理人や食通が最も注目するスペインのレストランとなる。関連サイト
 「デギュタシオン・ア・ジャズ」は、彼の発明した料理にインスパイアされて出来たもの。
プリングルス
 瞳ちゃんの夜食率、No.1のフライド・ポテト。毎日のように食べているらしい。一番のお好みは、サワー・オニオン(緑の缶)である。2002年9月。パッケージと味をリニューアルする。公式サイト
フロイト
 ジークムント・フロイト(Sigmund FREUD)。1856年、モラビア地方の小都市フライベルク(現、チェコのプシーボル)に生まれる。神経病学者、精神分析の創始者。60年、一家でウィーンに移住。81年、ウィーン大学医学部卒業。85〜86年、パリの高名な神経病学者J.M.シャルコーのもとに留学し、催眠を研究するかたわらヒステリーの問題に関心を寄せる。92年、催眠の限界を感じ、リラックスさせた中で自由に心の葛藤を語ってもらう「自由連想法」からなる「精神分析療法」を開発する。95年、ブロイアーと「ヒステリー研究」を共著で出版するが、この本は見解の相違を明らかにするものであり、後に二人は決別する。1902年、フロイトの精神分析に理解をしめした数名で、「心理学水曜会」が開かれるようになる。907年、ユングとの出会い。09年、クラーク大学のスタンリー・ホールに招かれ、ユング、フェレンツイとともに渡米。13年、ユングと決別。1914年(第一次世界大戦中)〜、「ナルシシズム入門」「本能とその運命」「抑圧」「悲哀とメランコリー」など、発表。21年、「快感原則の彼岸」発表。24年ウィーン市議会より、名誉市民に値する市民権が与えられる。31年にウィーンの医師協会がようやくフロイトを名誉会員に指名。38年6月6日にロンドンに亡命。翌年死去。フロイトは、神経症者の幼児期体験,性倒錯の存在ならびに自己分析の資料を基に、全ての神経症はセックスにあるとする「性欲理論」や性のパワー「リビドー」の存在、「エディプスコンプレックス(母親への近親相姦愛)」、性的発達の中に含まれるサディズム的要素、治療者によせる患者の憎悪的愛情(感情転移)、死の本能、などの体系化に尽くした。
 菊地さんは、フロイティアン(フロイト主義者)だと公言している。
ベトナム戦争
 60年代初頭から75年4月30日までベトナムの地で繰り広げられた、南ベトナムと北ベトナムとの武力衝突。しかし、戦争の実体は南ベトナムを支援したアメリカと北ベトナムを支援したソ連、中国との政治戦略的な戦争といえる。アメリカは、1,500億ドルの巨費と、ピーク時には年間54万人の軍人(アメリカからの経済援助とひきかえに、各国の国策のもと、韓国、タイ、オーストラリア、ニュージーランド、フィリピンからの兵士も含む)を派遣し、国の威信をかけて挑んだが、結果は北ベトナム(ソ連、中国)側の勝利であった。この戦争の犠牲は大きく、撤退したアメリカ軍でさえ5万8千人以上の戦死者を出し、南北ベトナム人民に至っては200万近い命が犠牲になった。そして、大量に空中散布された枯葉剤の後遺症(特にダイオキシンの影響)で、今もなお苦しんでいる人たちが沢山いる。
 菊地さんの、「早く、ベトナム戦争が終わって、1975年にならないかなー」とは、単にベトナム戦争をプレ80年代の、枕詞として使っているだけなのである。
ペンギンXXX
 SPANK HAPPYのライヴ中、お水の差し入れやダンサーとして登場する、ペンギンの着ぐるみ。中には、菊地春代夫人(神奈川県藤沢市出身。A型。小柄)が入っている。
ペン大
 菊地成孔氏が94年から私設で行っている、サックスと音楽理論の個人教授の総称。ペンギン音楽大学(Conservatoire de Manchot PEN-DAI)の省略。クラス分けは 以下の通り。・サックス科上級 クラス・フンボルト(コピー&ジャズ理論)  ・サックス科中級 クラス・ケープ1(音色開発) ・クラス・ケープ2(基礎運指) ・サックス科初級 クラス・アデリー(初めてサックスを手にする方) ・理論科上級(作・編曲) クラス・マゼラン ・理論科初級(商業音楽理論実践1) クラス・スネアーズ ・理論科(商業音楽理論実践2) クラス・フィヨルドランド ・理論科(音楽史・教養) クラス・シュレーター バッジ と学生証のデザイン&制作は畠山香織さんに依頼された。
 菊地氏の授業は、他にも「映画美学校」の音楽美学講座(通年制)などがある。
細野晴臣
 1947年、東京都白金生まれ。A型。ミュージシャン。69年、「エイプリル・フール」に加わり プロとしてデビュー。70年、伝説の日本語ロックバンド「はっぴいえんど」を結成。その後「ティン・パン・アレー」、ソロ活動を経て、78年、こたつの中で焼きおにぎりを食べながら、細野が坂本龍一、高橋幸宏を誘い、「Y.M.O」結成、世界的な成功を収める。「YMO」散解後は、レーベル「ノンスタンダード」「モナド」を設立。96年にレーベル「デイジーワールド・ディスク」を発足し、新しい音楽の潮流を紹介している。現在は、「TIN PAN」のベーシストとしても更なる活動を行っている。代表作は『メディスン・コンピレーション』『N.D.E』『インターピーシス・オーガニゼイション』など。
ボリス・ヴィアン
 ボリス・ヴィアン(Boris VOAN)。20年、フランス生まれ。作家、詩人、画家、俳優、歌手、トランペット奏者、エンジニアなどなど。42年、フランス工業規格化協会に就職。クロード・アバティのジャズ楽団に参加。44年、ジャズの批評を始める。45年、映画「マダムの浮気」に出演。46年、サルトル、ボーヴォワールらと知り合う。「うたかたの日々」出版。ヴィアン、サン・ジェルマン・デ・プレにデビュー。華々しい生活のピークを迎える。47年、「墓に唾をかけろ(別のペンネーム:ヴァーノン・サリヴァン名義)」が、ベストセラー。49年、「墓に唾をかけろ」発禁処分。シャンソンの作詩を始める。51年、映画『混乱』に出演。52年、コレージュ・ド・パタフィジックの正式メンバーとなる。57年、映画「モナリザ」「ポケット版の恋」に主演。文中作品以外の著書。小説・詩集:「北京の秋」「赤い草」「心臓抜き」「ぼくはくたばりたくない」。ヴァーノン・サリヴァン名義:「死の色はみな同じ」「醜いやつらは皆殺し」など。戯曲:「帝国の建設者」「蒼白シリーズ」など。『体が弱く、体力が続かない者にはとてつもなくリアルな「詰めの甘さ」「どうでもいいや主義」がヴィアンの小説には横溢している。(月刊キクチ2000年3月号より)』菊地さんは高校生の頃からヴィアンの「うたかたの日々」や「北京の秋」の中の台詞を、女の子を口説くのに使っていたらしい。